翠華&文香の歴史探訪〜萩(山口)③

桂小五郎の生家訪問。
桂小五郎は、
幕末の風雲児といわれ、時に「暴れ牛」と怖れられた長州藩革命派のリーダー・高杉晋作に対して、血気盛んな若者たちの「兄貴分」的存在として慕われ、暴走しがちな藩のバランス役として、倒幕への舵取りを任された人物。

1833年長州藩の藩医の子としてこの家に生まれ、8歳で桂家に養子に入ります。
藩校明倫館で山鹿流兵学教授であった3歳年上の吉田松陰に兵学を学び、「事をなすの才あり」と評されたそうです。松下村塾の門下生ではありませんでしたが、その後も松陰に対し、門人の礼をとリ続けていたということです。

19才で剣術修行のため江戸に留学するのですがこの時にペリーの率いる黒船を見た衝撃から、尊王攘夷運動を展開し、倒幕を進めます。

中に入ってみると‥
これは、小五郎が落書きした木。
ペンで「已後而死」と書かれています。
死ぬまで努力し続けるという意味。
落書きが、そんな言葉だなんて、カッコ良すぎですね。

この掛け軸、7歳ごろの手習いとして「今日」と書かれた書です。右上に「花丸印」が押され、右下には師匠が朱で「以之外宜」(もってのほかよろし)と書いています。旧宅の襖の下張りから発見された珍しいお宝✨
それにしても、幼くして達筆!

志士たちのゆかりの地をあとにして 向かったのは萩城。
ここで、長州の歴史について勉強したことをまとめていきたいと思います。

萩城の築城主は、毛利輝元。
輝元は、毛利隆元の長男として1553年に生まれました。
毛利隆元は、毛利元就の長男でしたが、1563年に若くして亡くなり、輝元が祖父・毛利元就の跡を継ぐ形で、当主となりました。
その後、中国地方を代表する大名に成長していきました。

1589年には広島城を築城し豊臣家の五大老にも数えられましたが、
1600年の関ヶ原の戦いで、西軍の実質的な総大将(一般的には石田三成が知られていますが)に選ばれたものの敗れてしまいます。
これにより大幅に所領を削られ、1604年に居城を萩城に移します。

家康の考えは、毛利家の領地をすべて没収し、血筋を断とうというものでしたが、吉川広家の尽力によって、領地は3分の1になったものの、なんとか御家は存続することが許されました。
とは言え、この時毛利家は祖先である大江広元の頃からのゆかりの地安芸国を離れなければいけなくなってしまった事で、家臣たちは復讐の心を持ちながら『萩』へと向かったとも言われています。



更に
開発のために借金まみれになった長州藩は、第13代藩主毛利敬親が藩主に就いた翌年から村田清風という凄腕の政治家が藩政改革を推し進めていき、日本で一二を争うほど裕福な藩になりました。
そしてその財政を使ってやがて日本を動かしていくことになるのです。


毛利敬親が藩主になって15年後の1853年。浦賀にペリー率いる黒船が来航。日本は幕末と呼ばれる時代に突入していきました。
尊王攘夷という『外国人をぶっとばせ!天皇を大切にしよう!』という考えが日本中で広がっていたのですが、とりわけ長州藩の藩士は、この考えを支持しました。代表格が松下村塾の塾長だった吉田松陰。吉田松陰は尊王攘夷の中でも「外国を追い払うために外国と並ぶだけの実力を持ってそして最終的に追放しよう!」という大攘夷という考え方を支持しました。
そんな中、江戸幕府の大老井伊直弼が、日米修好通商条約をアメリカと結びました。その条約にとって邪魔であった尊王攘夷派の志士を排除しなければいけないと、いう事で行われたのが安政の大獄。
これにより吉田松陰は処刑されることになりましたが、これがさらに長州藩の攘夷感情を高める結果となり、最終的には吉田松陰に学んだ桂小太郎や高杉晋作などを中心に小攘夷的な方向(単に外国人を追い払う)に方針を固めていきました。
この攘夷の考えをそのまま実行して、下関海峡を通る外国船を砲撃。翌年、その報復として襲撃されたイギリス中心の4カ国が砲撃をした砲台を占領。
時期を同じくして、京都において長州藩排除の動きが活発化します。
八月十八日の政変で長州藩は京都から追放され、さらに禁門の変では天皇がいる方面に鉄砲を撃ったということで〝天皇に刃向かう逆賊〟となってしまいます。これは、尊王攘夷を掲げ天皇を大切にしようとしていた長州藩士には大ダメージ。
これを懲らしめようとした幕府軍が長州藩を攻撃。尊王攘夷派の藩士を捕らえることを条件に長州藩は幕府側につくようになりました。
しかし、これらの流れを長州藩の攘夷志士は黙って見過ごしません。吉田松陰を師事した高杉晋作が功山寺において挙兵。自ら作り上げた奇兵隊と共にクーデターを起こし、長州藩の実権を握ります。
こんな状況を見た幕府が再び第二次長州征伐とし攻撃しますが、長州藩は長年の敵であった薩摩藩と和睦し、連戦連勝の快進撃を見せて幕府を撤退に追い込みました。この事で幕府の権威は一気に地に堕ちることになりました。
こうして幕府に勝った長州藩は逆に倒幕を実施。1868年には徳川慶喜の大政奉還を受けて王政復古の大号令を発令し、倒幕を成し遂げました。
明治時代に入るとかつて攘夷志士と呼ばれていた長州藩の藩士たちは立派な政治家に成長し、明治時代を引っ張っていきました。

関ヶ原の戦いから268年後、毛利家やその家臣である藩士たちが徳川家に対して仇を討ち、国を動かす立場へと変貌を遂げたのだという考えもあるようです。歴史の捉え方の深さを感じます。





長州藩の歴史を学んだ後は、
インスタ映えスポットへ♡

samurai soul

書道好きで歴史好きな 女流書家2名によるサイトです。 武将の屈する事ない強い意志と穢れなき心を 勢いある雄勁な筆運びで書道で表現! 武将ゆかりの地へ実際に足を運んだ道中記など 侍魂ワールドへようこそ。

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