翠華&文香の歴史探訪〜徳川家康・浜松城
永禄11年(1568)、三河から東進し、今川領の制圧を開始した徳川家康。家康は、駿府に攻め込んできた武田信玄の侵攻に備え、遠州一帯を見渡せる三方ヶ原の丘に着目しました。天下を盗るためには、まず信玄を倒さなければならないと判断した家康は、元亀元年(1570)、岡崎城を長男の信康に譲り、三方原台地の東南端に浜松城を築城、駿遠経営の拠点としました。
浜松城は、三方ヶ原台地の斜面に沿い、西北の最高所に天守曲輪、その東に本丸、二の丸、さらに東南に三の丸と、ほぼ一直線に並ぶ、「梯郭式」の築城法をとっています。「梯郭式」とは、各曲輪が隣接しながら、階段状になっている様式のことで、本丸の背後が自然の防衛線になるような城に多く見られます。
徳川家康は29歳~45歳までの17年間を浜松城で過ごしました。有名な姉川、長篠、小牧・長久手の戦いもこの期間中の出来事です。
この時代は、徳川300年の歴史を築くための試練の時代だったと言えます。
【三方ヶ原の合戦】←注目👀
元亀3年(1572)、武田信玄と徳川・織田連合軍が浜松市郊外の三方ヶ原台地で激突した戦い。
家康の生涯で最大の敗戦。
武田軍3万人に対して家康軍はわずか1万人足らず。これでは勝負にならないと兜を脱いだ家康は、家臣に化けて命からがら浜松城に逃げ帰った。
城に帰った家康は、敗戦直後の意気消沈した自分の顔の絵を描かせ、生涯この絵を大切にし、敗北を自戒したと言うエピソードがある。
一方、家康に大打撃を与えた信玄は西上を続け、翌1573年(天正1)三河に入り野田城(愛知県新城(しんしろ)市豊島(とよしま)本城)を陥れたが陣中に発病。同年4月甲府に戻る途中信州駒場(長野県下伊那郡阿智(あち)村大字駒場)で没した。
鎧掛松
三方ヶ原の戦いで敗れ、浜松城に逃げ帰った家康公が、鎧を脱いでこの松に掛けたという伝説から、この名が付けられました。現在の松は3代目で、初代の松は浜松城内の堀の近くにあったといわれています。
天下人となった徳川家康が、若き頃に戦国の世に名を上げた周辺諸国の名家、今川、武田、織田など 巨大な戦国大名に囲まれ、戦い生き延びて天下盗りの夢をつかんだ場所が浜松城であることから、浜松城は、出世城として有名です。
是非、あやかりたいものです✨
次は、駿府城✨
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